「リュート、大丈夫?足痛い?」

 岩肌が露になった崖をそれ以上浸食しないよう、シェールは両手両足を使い慎重に下りていく。この場所は少し前に地滑りを起こしたばかりだ。

「いや、大丈夫。動かなければ痛くはない。それより、上に上がれそう?」

「うーん、ちょっと厳しいかも」

 最後にストンと着地すると、シェールは今下りてきたばかりの崖をまじまじと見上げた。

「途中までは行けたんだけど、結構滑るし、うまく上まで上れたとしても、その後ひとりで迷子になるのも嫌だし。やっぱりここで大人しく助けを待つことにする」

「助けを待つったって、そんなのいつ来るかわからないだろ!何日、いや、何週間ってかかるかも…」

「大袈裟だな、リュートは。暗くなっても僕たちが帰らなければ、大人が、たぶんとうさんが捜しに来てくれるよ。ひょっとしたら、もうおばさんたちが騒ぎだしてるかも」

 少し前に傾き始めた太陽は、今や急速に力を失い、あたりはすっかり暗くなっていた。怪我を負ったリュートが心細く感じるのも無理はない。

「そうだとしても、この広い森の中だぞ。そもそもオレたちがこの森にいることだって、知らないだろうに」

「それでも何でだか来てくれるんだよ、とうさんは。鼻が利くって言うのかな。だから、ここでリュートとふたりミイラになる心配はしてないんだけど、問題なのは助けが来たその後だよ…」

 シェールは空を仰ぎ、続いて大きな溜め息を吐いた。

「シェールんちのお仕置きって、どんな感じ?」

「どんなって、リュートんとこと同じだよ、たぶん」

「ムチ?」

「パドルは門限破ったときと、めちゃくちゃ悪いことしたときだけ。それ以外は平手」

「なんだ、意外と甘いんだな。見るからに怖そうな人だから、もっと普段からビシバシされてるのかと思った」

「全っ然甘くないよ。平手って言ってもとうさんのは下手なパドルより痛いし、それに今回はみんなに迷惑掛けただろうから、もしかしたら…」

「もしかしてパドル持ち歩いてるの?」

「まさか!家にあるよ。でも、これを機に出掛けるときは持ってけって言われるかも」

 シェールは両手で顔を覆い、ガタガタと身震いした。

「シェールはさ、あの人についてここを出てから、帰りたいって思ったことはないの?」

「そりゃあるよ。特に最初の頃は、知らない街で知らない人ばっかりで。とうさんも仕事が忙しくて、あんまりかまってくれなかったしね。だから、しょっちゅう帰りたいって思った。けど、言ったらいけないんだって思って、ほとんど言わなかったな」

「やっぱり強いな、シェールは」

「強くなったんだよ。リュートだって、いきなりおじさんとおばさんがいなくなったら、そうなるしかないって」

 リュートには返す言葉が見付からなかった。二人はそれきり沈黙した。

「あ、でも。ああ見えて、とうさん結構やさしいところもあるんだよ」

 思い出したとばかりに、シェールは手のひらをぽんと叩いた。

「まだ学校に行き始める前の話なんだけど、とうさん仕事が忙しくて、毎日帰りが遅いときがあって。そしたら、めちゃくちゃ早起きして、朝から散歩とか鬼ごっことかしてくれたんだよね。雨の日は本読んでくれたり、いろいろ」

「なんつうか、ちょっと意外」

「あのときはすごく嬉しかったし、毎朝楽しかったな。だけどよくよく考えたら、とうさんほとんど寝てないんだよね。ただでさえ忙しくて疲れてた筈なのに。でも、そういう人なんだよ、とうさんって」

「なんかオレの思ってたイメージとちょっと違うかも」

「そう?ていうか、リュートはとうさんに興味があるの?」

「あの人にっていうか、何て言うか。オレ、まだちゃんと決めてないけど、あと何年かしたら士官候補生の試験受けたいって思ってて、そしたら…」

「十中八九、とうさんにしごかれることになるね」

「やっぱりそうか」

 うーんとリュートは唸り始めた。

「なんか複雑」

「え?」

 唐突に不機嫌そうな声を上げた友人をリュートは見詰めた。

「だって、そうなったらリュートはとうさんにいろんなことを教えてもらえるんだよね。なんかいいなって」

「は?おじさんもおばさんも将校だったって聞いてたから、てっきりシェールも士官学校に入るんだとばっかり思ってたんだけど」

「そう出来たら良いけど、だとしても中央には行けないよ。親が働いてるんだもん」

「そっか、そういうもんか」

 リュートが呟き、それからまたしても沈黙が訪れた。

「ねえリュート、少し休んで」

「シェールは?」

「見張り。灯りが見えたら大騒ぎするから、そのときは手伝ってよ」

「わかった。途中で交代するから」

 リュートは大きくせりだした木の根にもたれ、目を閉じた。思ったとおり、体調が思わしくないのだ。シェールはそんな友人を一瞥すると、再び先程の崖に手を掛けた。

 そのまま半分くらいまで崖を上り、少しだけ広くなったところにそっと腰を下ろす。ここならば周囲の様子を窺うことが出来る。父はもう自分達の居場所にあたりを付けただろうか。

 リュートにはああ言ったものの、ひとりになるとやはり心細かった。自然と溜め息が漏れた。

 どのくらいそうしていただろう。ふいに周囲が明るくなった。

「とうさん!!」

 反射的にシェールは叫んだ。

「シェール!どこだ!」

「ここ!崖の下にいる!」

 ややあって、目の前がパッと明るくなる。そして、心配そうな父と目が合った。

「大丈夫か」

「僕は平気。でも、リュートが足を怪我してて、もしかしたら折れてるかも」

「今どこにいる?」

「この下」

 シェールは友人のもとへ父を案内するべく、再度崖を下り始めた。

「灯りを持っていろ」

 下まで下りると、父は腰に付けていたランタンをこちらに寄越した。

「痛めたのはどっちの足だ」

「右です」

「いいか、触るぞ」

「うぅ…」

 リュートが呻き声を上げる。患部に灯りを当てつつも、自分は正視出来なかった。

「恐らく挫いただけだろう。少なくとも折れてはいない」

「良かった…」

 父の言葉に安堵するも束の間。

「良いわけないだろう!!」

 特大の雷が落ちた。油断していたわけではないが、このタイミングで来るとは思わなかった。心臓がきゅっと萎縮し、もう少しでランタンを落とすところだった。

「自分達が何をしでかしたのか、わからないのか。どれだけの人が心配したと思っている」

「ごめんなさい」
「すいません」

 揃って謝罪を口にすると、闇の中から大きな溜め息が聞こえた。

「ともかく戻るぞ。立てるか」

 そのまま二人に灯りを当て続けていると、リュートに向けて父が背中を差し出したのが見えた。

「つかまれ」

「で、でも」

 リュートが躊躇する。それはそうだとシェールは思った。だが、続く台詞に悪餓鬼たちは度肝を抜かれる。

「嫌ならシェールに背負われるんだな」

「え?」

「は?」

「皆待っているんだ。早くしろ」

 凍りつく悪餓鬼ふたりをそのままに、タリウスは立ち上がり崖に向かって歩き出した。

「リュート、とうさんマジだよ」

「ウソだろ?」

「ホントだって。もう、おぶってあげるから早くして。これ以上、怒らせたくないんだ」

シェールはその場にランタンを置き、友人にそっと耳打ちした。

「何をごちゃごちゃ言っているんだ。なんならこの場でお仕置きしてやっても良いんだぞ」

「とうさん!」

 恐れていた事態にシェールは悲鳴を上げた。

「あ、あの!」

 そんな父子の間に、リュートが割って入る。

「やっぱり連れてってください。シェールにはこれ以上迷惑掛けれない」

「良いだろう。シェール、お前は灯りを付けて先に登れ」

 シェールはほっとして、ベルトにランタンをひっかけた。

 崖を上がり終えると、シェールはランタンを片手に先陣を切って歩いた。時折、リュートを背負った父を振り返りながら。

 森の入口付近まで来ると、俄に辺りが明るくなった。松明や手燭の炎に照らされて、知った顔がいくつも浮かび上がってくる。

「シェール?リュート!!」

 シェールはその中のひとつに向かって駆け出した。

「おばさん、ごめん。リュート怪我してて、僕が悪いんだ」

「何馬鹿なこと言ってるの。そんなことあり得ないわよ。第一、あんただってボロボロじゃない」

 リュートの母親である。彼女はつい数秒前まで悲壮に満ちた表情をしていた。

「母さん、ごめん」

「ごめんじゃないわよ。人様に迷惑ばっかり掛けて。本当にもうすみません」

 彼女はリュートを睨み付け、それからタリウスにペコリと頭を下げた。

「足を痛めているようなので、良ければこのままお宅まで送ります」

「そんな、申し訳ない。もうどこまで馬鹿なのよ、あんたは」

「かまいません。それに、馬鹿なのはうちも同じです」

 言葉とは裏腹にタリウスの表情はどこか柔らかである。だが、次の瞬間、思い直したかのように息子へ厳しい視線を向けた。

「シェール、きちんとお詫びをしなさい。皆こんな時間までお前たちを捜し回ってくれたんだぞ」

 シェールははっとして、周囲の大人たちに頭を下げた。リュートもまた一旦父の背から降りて、それに倣った。


「うちの人、今夜は遅いから送ってもらって助かったわ。その上、リュートの手当てまでしてもらって」

 リュートの家に着くと、父は改めて傷の具合を確認し、簡単な処置を行った。仕事柄、怪我の手当てくらい、父にとっては慣れたものなのだろう。

「あくまでも応急措置です。明日にでも医者に診てもらってください」

「出来たら泊ってってもらいたいところだけど、うちはエレインのとこみたいに広くなくて」

「それには及びません」

 それから、父とふたりリュートの家から辞し、今夜の宿に向かった。本来なら今日のうちに王都へ帰り着くはずだったが、一連の騒ぎですっかり遅くなり、これでは閉門に間に合うかどうか定かではない。

「ひとつ聞かせろ」

「何?」

「お前はあの崩れた崖を一人で登れたんじゃないのか。もしそうなら、一旦お前だけ戻って助けを呼びにくれば良かったのでは?」

「それは僕も考えたけど、でも。リュートの具合が悪そうで心配だったんだよね。もしひとりにしてその間に何かあったらって思ったら、あの場を離れられなくなった。間違ってたかな」

「悪い選択だとは思わない。だが、そこまで考えられるのなら、事を起こす前にそれがどういう結果を生むか、よく考えなさい」

「ごめんなさい。ここに来る度、リュートとその、問題ばかり起こして。もうここには来ないほうが良いのかな」

 毎度のことではあるが、どうも郷里の水に触れると途端にたがが外れるのだ。

「お前は諸悪の根元がリュートにあるとでも言うつもりか」

「そんなこと言ってない!ただ、リュートと一緒にいると楽しくて、つい無茶したくなるっていうのは、あるんだけど…」

「いいか、シェール。リュートのお母さんの顔を見ただろう。あれがお前のしたことだ」

 シェールの脳裏に、先程見たリュートの母親の様子が映し出される。思い出しただけで胸が苦しくなった。

「とうさんも心配してくれた?」

「当たり前だ」

 大きな手がくしゃくしゃと髪をかきまぜた。

「王都に戻ったらしばらくは外出禁止だ。それから、今夜は食事抜きだ」

「はい…ってことは、お仕置きしないの?」

 どんなに悪いことをしたとしても、全ての罰を一度にもらうことはない。

「こんな傷だらけの状態で叩けるわけがない」

 崖の登り降りを繰り返した結果、手の爪はボロボロに欠け、指先には所々血が滲んでいる。その上、頬にはいくつも擦り傷を作っている。見えない部分にも傷を負っていると容易に想像出来たのだろう。

「全く無茶ばかりして」

 頬の傷のひとつに父の手がそっと触れた。


 翌朝、夜明けと共に彼らは宿を出た。その際、一瞬の隙をついて、シェールはひとりリュートの家へ向かった。

 いくら気心が知れているとは言え、流石にこの時間に正面から訪ねていくのは気が咎める。そこで、先程から小石を拾っては、リュートの部屋の窓にぶつけていた。

「シェール?!一体どうしたんだよ」

 リュートは自分の姿をみとめると、すぐさま窓を開けてくれた。

「ごめんね、こんな朝早く。でも、どうしても言いたいことがあって」

「何?」

 リュートが身構えるのがわかった。

「昨日は変なこと言ってごめん」

「昨日って、ほぼ丸一日一緒にいたじゃん。どの話?」

「あ、確かに。えーと、その、リュートが士官学校に行きたいって言ったときに、うらやましいとか言っちゃって。そんなこと言われたら、受けにくくなるよね。そうじゃなかったとしても、何か変なこと言って、ごめん」

「それ言いにわざわざこんな朝から?」

「いや、だって。とうさん仕事だし、僕も学校あるから、今出ないと間に合わなくて」

「ならこんなとこで油売ってたらヤバイんじゃないの?昨日の今日だし」

「まあそうなんだけど。でも、昨日は奇跡的にあんまり怒られないで済んだんだよね」

 ふぅと、リュートが溜め息を吐いた。

「シェールはさ、あの人のことが、おじさんのことが大好きなんだね。だから、おもしろくないんだよ」

「そんなんじゃなっ…!」

 シェールは思わず大きな声を上げ掛け、慌てて口を押さえた。

「おじさんがいい人なのは何となくわかった。けど、シェールには悪いけど、オレは二年間あの怒鳴り声を聞くのは無理だって思った。だから、オレも中央は受けない」

「リュート」

 どこから突っ込んで良いやらかわからないが、ともかくリュートなりに自分の意を汲んでくれたようである。

「昨日あれから父さんにも怒られんだけど、正直おじさんよりマシって思った。だから、シェールも早く帰んなって」

「うん。そうする」

 確かに、折角父が情けを掛けてくれたというのに、これでは元の木阿弥である。

「気を付けて帰んなよ」

「うん。リュートもお大事に。また来る!」

 そこからは全力疾走である。


「シェール!一体何のつもりだ!」

 思ったとおり、父はまさに怒り心頭だった。

「ごめんね、とうさん。どうしてもやり残したことがあって」

「いい加減にしろ。もっと考えて行動するよう、昨日言ったばかりだろう」

「考えたよ。考えた結果、譲れなかった。だから、ちゃんと罰は受けるよ」

「開き直る気か」

「そんなんじゃないけど…」

「もう良い。ともかく今は時間がない。その代わり帰ったら覚悟しておけ」

「うん」

 先程までの威勢はどこへやら。途端に胸がきゅっとして、急激に情けない声になった。

「痛った!!」

 バシンという音と共にお尻が熱くなる。あまりのことに、シェールは思わずつんのめりそうになった。間違いなくフルスイングである。

「こんなものは叩かれたうちに入らない。ほら、早くしろ」

「はい!」

 ひとまず良い子に返事を返し、それから、ずんずんと進む父の背中を懸命に追った。


 了 2021.1.13 「森」